40代女性と過ごした一夜|快感を追い求めるセックスと、二人で感じ合う目合ひの違い

※この記事は、今から約1年半前に経験した出来事をもとに書いています。この記事でお伝えしたいのは、女性が大切にされることの意味や、快感を追い求めることと、相手と心身の感覚を分かち合うことの違いについて、私自身が氣付いたことです。

あくまでも個人的な体験と氣付きとして、読んでいただければ幸いです。

目次

女性が大切にされることを知らないということ

最近、プライベートで神戸を訪れ、ある女性と目合ひ(まぐわい)を経験しました。

最初に彼女と話したとき、私は目合ひについて自分の考えを伝えました。

そのとき、彼女の話を聞いて驚いたことがあります。

それは、男性から大切に扱われるとはどういうことなのか、わからない女性もいるということでした。

彼女は、これまで女性として大切に扱われながら、心と身体の両方を尊重されるような性の経験を、十分に持てなかったようです。

性教育についても、男性と女性の双方に、身体の仕組みだけでなく、相手を尊重することや、お互いが安心して感じられる関係について学ぶ機会が必要なのだと感じました。

彼女は、AVなどで描かれる性行為のあり方を、無意識のうちに普通のこととして受け止めていたようでした。

男性が激しく身体を動かし、摩擦によって女性をオーガスムへ導き、最後に射精して終わる。

女性がオーガスムを感じられなければ、女性側に問題がある。

たとえオーガスムを感じられたとしても、終わったあとには疲労感や虚しさが残る。

彼女にとって、それが性行為の当たり前になっていたのです。

もちろん、AVで描かれる性行為がすべての人に当てはまるわけではありません。また、激しい刺激を好むこと自体が悪いわけでもありません。

ただ、彼女の話を聞いていると、一つの疑問が浮かびました。

自分の身体が何を感じているのか。

本当はどのように触れられたいのか。

相手とどのようにつながりたいのか。

そうしたことを知る前に、世間で当たり前とされている性行為の形を、自分の中に取り込んでしまっている人もいるのかもしれません。

彼女は、これまでの自分を変え、自分自身を大切にすることを意識し始めていたようでした。

そんなタイミングで、私たちは出会いました。

そして、不思議な流れのなかで、神戸で目合ひを経験することになったのです。

快感を追い求めることと、心身がゆるむことの違い

ホテルのロビーで待ち合わせたあと、私たちは近くの森林を散歩しました。
その後、焼き鳥を食べながら、お互いのことを話しました。

彼女とは不思議なくらい波長が合いました。

美しい人だなと思いましたし、内側からにじみ出るような色氣も感じました。何か特別なものを持っている。

そんな印象を受けました。

さまざまな話をするなかで、彼女がこれまでどのような経験をしてきたのか、少しずつわかってきました。

そしてホテルに戻り、スキンシップを取りはじめました。

最初は、まだ服を着たまま、頭や顔、肩、首筋などに優しく触れ、キスをしました。

すると、彼女の身体は想像以上に敏感に反応しました。

ほんの少し触れたり、唇を合わせたりするだけでも、彼女の身体には大きな感覚の変化が起きているようでした。

そして、彼女はオーガスムを経験しました。

私は、その反応に驚きました。

少し触れただけでオーガスムになるという女性の話を聞いてはいましたが初めて目の前でそのような方と出会いました。正直、見ていて心が苦しかったです。
なぜなら、身体が無意識にオーガスムというドーパミンや刺激を求めてにいくからです。一見、たくさんオーガスムができて素晴らしいように見えるかもしれませんがオーガスムの囚人になっているような感覚だと思いました。
本当は安心したところから快感を味わいたいのに、身体が勝手にオーガスムや刺激に走ってしまう。落ち着いて、リラックスして、安心して、ゆるみたいのにそれができないのです。

その後、お風呂に入ってから、再びベッドに戻りました。

優しく触れ始めると、彼女はすぐに氣持ちよさを感じ、声を出すようになりました。

今振り返ると、彼女は無意識のうちに、身体の緊張を利用して、さらに強い快感を得ようとしていたのかもしれません。

足を大きく動かしたり、手を強く握ったり、ベッドのシーツをつかんだり、腰を浮かせたりふりふりしたり。

呼吸にも大きな変化が見られました。

私の手を強く握られたときには、痛みを感じたので、「痛いよ」と優しく伝えました。

まだ上半身にしか触れていない段階でしたが、彼女は何度もオーガスムを経験していました。

一度、私は触れることをやめ、彼女の様子を見守りました。

すると、身体に触れていないにもかかわらず、彼女は何度も大きな反応を示していました。

首を横に振ったり、後ろに反らしたり、上半身を起こしたり。

「どうしよう、氣持ちよすぎてやばい」

「わけがわからなくなってきた」

そんな言葉も口にしていました。

彼女は、強い快感に圧倒されているように見えました。

ここで私は、ある違和感を覚えました。

身体が大きく反応していても、必ずしも深くリラックスしているとは限りません。

氣持ちよさを感じながら、同時に身体が緊張していることもあります。

もちろん、身体を動かしたり、強い刺激を求めたりすること自体が悪いわけではありません。

ただ、彼女の場合は、快感が高まるほど身体に力が入り、さらに強い快感を求めるという流れが生まれているように、私には感じられました。

そこで私は、一度距離を取り、彼女が落ち着くのを待ちました。

そして、再び優しく触れ始めました。

彼女は、唇へのキスにも非常に敏感でした。

ほんの少し唇を合わせるだけでも、身体全体に感覚が広がっていくようでした。

乳首にゆっくり触れていたとき、彼女は「もっと舐めて」と言いました。

もっと刺激がほしい。
もっと氣持ちよくなりたい。
そうした欲や「飢え」が伝わってきました。

しかし、私は彼女の求めるままに刺激を強めることはしませんでした。

それは、彼女の要望を無視したかったからではありません。

彼女の身体が、すでに強い刺激に対して過敏になっているように感じたからです。

そして、私がこのとき大切にしたかったのは、快感をさらに高めることではなく、彼女が安心して身体をゆるめられるような触れ合いでした。

私のなかでは、こんな問いが浮かんでいました。

「女性が氣持ちよくなることが、男性の喜びなのではないか?」
「なぜ、彼女が何度もオーガスムを経験し、氣持ちよくなることを止める必要があるのだろう?」

確かに、相手が氣持ちよくなってくれることは、うれしいことです。

相手の喜びを自分の喜びとして感じることもあります。

しかし、その一方で、私は何か違うと感じていました。

快感を得ることだけが、触れ合いの目的ではない。

彼女は、何かから逃れようとするかのように、強い快感を求めているのではないだろうか。

何かを感じないようにするために、別の強い感覚で自分を満たそうとしているのではないだろうか。

これは、あくまでも当時の私が彼女の様子から感じ取ったことです。彼女の内面を私が完全に理解できたわけではありません。

それでも私は、彼女の身体の反応だけでなく、身体全体の状態に目を向けたいと思いました。

強い刺激を与えるのではなく、安心してゆるめるような触れ方をする。

急がず、焦らず、相手の呼吸や反応を感じながら触れる。

そうした触れ合いを大切にしました。

相手を氣持ちよくすることから、二人で感じ合うことへ

お膣に触れるときも、彼女はさらに強い刺激を求めるような反応を見せていました。

身体を動かし、刺激が強くなる方向へと導こうとすることもありました。

そのたびに、私は一度動きを止めたり、触れ方を変えたりしました。

ゆっくりと、優しく。
触れて、離れる。
また触れて、離れる。

その繰り返しのなかで、彼女がどのように反応するのかを感じ取ろうとしました。

私が大切にしたかったのは、彼女の要求を抑え込むことではありません。

彼女が自分の身体の感覚に氣付き、刺激を追い求める以外の方法でも、氣持ちよさを感じられる可能性を探ることでした。

しばらくして、私たちは身体を重ねました。

そのときも、彼女は無意識に腰を動かそうとしていました。

私は「腰は振らずに、少しじっとしていよう」と伝えました。

彼女は、氣持ちよさが高まると、身体を動かしてさらに刺激を得ようとしていたようでした。

しかし、しばらく動きを止めていると、徐々に身体が落ち着いていきました。

私は、その変化に興味を持ちました。

何かを足して氣持ちよさを高めるのではなく、何かをしようとすることを手放すことで、別の感覚が生まれるのではないか。

そんな可能性を感じたのです。

もちろん、腰を動かすことが悪いわけではありません。

ただ、今回の彼女との触れ合いでは、動きを少なくすることで、二人の間にある感覚が少しずつ変わっていくように感じられました。

やがて、私たちは身体を重ねながら、お互いの存在を感じ合うようになりました。

彼女は「氣持ちいい」と何度も口にしていました。

しかし、それまでのように、ひたすら強い快感を追い求める感覚とは、どこか違っていました。

彼女が感じている氣持ちよさを、私も感じている。
私が感じている氣持ちよさを、彼女も感じている。

そんなふうに、お互いの感覚が響き合っているように感じられたのです。

しばらくして、私は彼女にお願いしました。

「背中を触って、氣持ちよくしてほしい」

彼女は、セラピストのような優しい手を持っていました。

触れ方がとても柔らかく、力みがありません。

その手で背中を触れられると、身体に心地よい感覚が広がっていきました。

思わず声が出るほど氣持ちよくなりました。

すると、彼女もその様子を感じ取り、さらに氣持ちよさそうにしていました。

彼女は私の背中や首、耳、乳首などにも優しく触れてくれました。

氣持ちよさが高まると、自然と呼吸が変わることもありました。

ときには、丹田のあたりから笑いが込み上げてくるような感覚もありました。

私たちは、まるで少年と少女に戻ったかのように、無邪氣に触れ合っていました。

相手を氣持ちよくさせなければいけない。自分が氣持ちよくならなければいけない。そんな考えから離れ、ただ自由に相手に触れ、自分の感覚も味わう。

相手が氣持ちよくなれば、自分もうれしい。

自分が氣持ちよくなれば、相手もうれしい。

そのような循環が生まれていました。

相手を氣持ちよくすることと、自分が氣持ちよくなることが、別々のものではなくなっていく。

彼女にとって、これまで経験してきた、強い刺激によってオーガスムを追い求める感覚とは異なる、穏やかで心地よい感覚を味わっていたようでした。

オーガスムとは異なる、目合ひの心地よさ

ここで、私が今回の経験から感じた、オーガスムと目合ひの心地よさの違いについてお話しします。

私のなかでは、二つの感覚に次のような違いがありました。

オーガスムを目指す性行為では、快感が徐々に高まり、ある地点で大きな頂点を迎えます。その瞬間は非常に強烈で、身体全体が大きく反応することもあります。

しかし、私が彼女の話を聞いて感じたのは、その強烈な快感を繰り返し求めることで、かえって疲労感や空虚感が残る場合もあるということでした。

もちろん、オーガスムの感じ方や、その後の心身の状態には個人差があります。オーガスムそのものが悪いわけでもありません。

ただ、快感の強さだけを追い求めることが、必ずしも心の充足につながるとは限らないのです。

一方、今回の目合ひでは、快感を一つの頂点へと高めようとするのではなく、心地よさを穏やかに味わい続けるような感覚がありました。

大きな頂点を目指すのではなく、波のように訪れる感覚を味わう。

強い刺激を加え続けるのではなく、相手の存在を感じながら、触れ合いそのものを楽しむ。

そのような時間でした。

心地よさが強くなることもあれば、穏やかになることもある。

その変化を無理に操作せず、二人で一緒に味わう。

そこには、快感の強さとは別の豊かさがありました。

そして、触れ合いを終えたあとにも、穏やかさや安心感が残っていました。

お互いの存在を感じながら、心と身体がともにゆるんでいく時間。

それが、今回の私たちにとっての目合ひでした。

なお、こうした感覚は私自身の体験に基づくものです。オーガスムと目合ひの感じ方は人によって異なり、必ずしも同じ経過をたどるわけではありません。

氣付けば、私たちは5時間ほど触れ合っていました。お互い、すっかり緩んでいました。彼女の足元には枕を置き、私の腕の下にも枕を敷いて、彼女の身体に体重がかかりすぎないようにしました。
やがて眠氣が訪れ、氣付けば、彼女と身体を重ねたまま眠っていました。

途中で自然と離れ、その後は手をつないで眠りました。

何かを達成しようとする必要もなく、もっと氣持ちよくならなければと頑張る必要もない。

私にとって、それはとても穏やかで、満たされた時間でした。

翌朝、私たちは再び目合ひました。前夜と同じように、彼女は強い快感を求めるような反応を見せていました。

身体に力が入り、呼吸が変わり、オーガスムへ向かおうとするように見えました。

私は何度か、彼女の肩や頭を優しく撫で、身体の緊張がゆるむように促しました。

しかし、前夜と同じように落ち着くまでには、少し時間がかかりました。

後から彼女と話したとき、これまでの性行為では、相手の男性が彼女の強い反応を見ると、さらに氣持ちよくさせようとすることが多かったと聞きました。

彼女自身も、オーガスムの感覚を求めてしまう傾向があったそうです。

そして、性行為のあとには、いつも空っぽな感覚や虚しさが残っていたと話してくれました。

私は、その話を聞いて、改めて考えました。

彼女は、氣持ちよくなることを求めていた。しかし、本当に求めていたものは、強烈な快感だけだったのだろうか。

もっと安心したかったのかもしれない。もっと大切にされたかったのかもしれない。

自分の身体を、何かを達成するための道具ではなく、ただ感じるための身体として味わいたかったのかもしれない。

もちろん、彼女が本当に何を求めていたのかは、彼女自身にしかわかりません。

ただ、私には、快感を追い求めることと、安心して心身をゆるめることの間に、何か大切な違いがあるように感じられました。

今になって振り返ると、彼女のオーガスムを求めにいく姿勢は自分を大切にしていない姿勢であり、本当は何を感じているか。丁寧に感じるという行為から逃げていたように感じました。それは言い換えると、丁寧に感じてはいけないという何らかの罪悪感や自己否定とも繋がっていたかもしれません。

前夜と同じように、私は彼女の身体に優しく触れ、急がずに時間をかけました。

そして、徐々に二人の身体が落ち着いていくのを感じました。

やがて、私たちは再びお互いの感覚を味わうようになりました。

相手が感じていることを想像しながら、自分自身も感じる。
自分が感じていることを相手と共有する。

言葉で伝えることもあれば、呼吸や表情、身体の反応から伝わることもある。

「今の氣持ちいいね」
「ああ、氣持ちいい」

そんなふうに、二人で感覚を共有していました。

目合ひの魅力は、こうした時間のなかにもあるのだと思います。

自分だけが氣持ちよくなるのでも、相手を氣持ちよくさせることだけを目指すのでもない。

二人がそれぞれの感覚を大切にしながら、一緒に味わう。

そのこと自体が、私にはとても尊いものに感じられました。

女性の岩戸開きと、目合ひが教えてくれたこと

翌朝は、チェックアウトの時間が迫っていたため、2時間ほどしか目合ひをすることができませんでした。

もっと一緒につながっていたかった。彼女も、同じように感じてくれていたようでした。

その後はお風呂に入り、着替えを済ませ、食事を買ってカラオケに行きました。
歌ったり、踊ったり、話したり。
子どものように無邪氣に楽しみました。

そして時間が来て、彼女と別れました。

私は新神戸駅から新幹線に乗り、東京へと戻りました。

今回の旅は、私にとって多くの氣付きをもたらしてくれるものでした。

特に印象に残っているのは、彼女が、それまでとは異なる心地よさを体験してくれたことです。

これまで当たり前だと思っていた性行為の形とは違うものがある。強い刺激を求めなくても、心地よさを味わうことができる。相手を喜ばせるために頑張らなくても、一緒に楽しむことができる。

そうした可能性を、彼女自身の身体で感じてもらえたことが、私にとって大きな喜びでした。

女性が自分の感覚に氣付き、自分の身体を大切にし、これまで知らなかった可能性に触れる。

私は、そんな変化を「女性の岩戸開き」と呼んでいます。

女性性開花という言葉が最近よく使われていますがとても似た意味を持っていると感じています。

何かを無理に変えようとするのではなく、閉じ込めていたものが少しずつ開かれ、本来の自分に戻っていく。

そんな瞬間に立ち会えることは、私にとって、とても尊いことです。

最後に、今回の体験について、彼女からいただいたメッセージの一部をご紹介します。

※個人の体験や性に関する内容を含むため、公開にあたっては、ご本人の了承を得たうえで掲載することが大切です。

刺激による快楽

私は過去、失神するようなセックスを経験してきた。
毎回、前回よりも興奮するセックスをゴールにしていた。

体も心もヘトヘトだった。

なんだか、自分も相手も追い立てていた。

ただ優しく触って、動かない。摩擦のない。あんなまぐわいがあるなんて。
そして、あんなに心地いいなんて。

今の自分の感覚を味わう喜び。

初めて体験した。

すごいすごい。

私の周りにも広がればいいな。

このメッセージを読んで、私は改めて、目合ひについて考えました。

私たちは、快感を高める方法については、さまざまな情報に触れることができます。

オーガスムするためのテクニックになると、ありとあらゆる情報が出回っています。

しかし、相手を尊重しながら触れ合うこと。

自分の感覚を大切にすること。

何かを達成しようとせず、ただ一緒にいること。

そうした触れ合いについては、まだ知らないことがたくさんあるのかもしれません。

今回の神戸での経験を通して、私が改めて感じたこと。

それは、氣持ちよさの強さと、心の深い充足は、必ずしも同じではないということです。

強い快感を求めることも、オーガスムを楽しむことも、決して悪いことではありません。

ただ、それだけが性の喜びではないのだと思います。

相手の存在を感じる。

自分の身体の感覚を味わう。

相手の反応を尊重する。

自分の氣持ちも大切にする。

そして、二人で一緒に過ごす時間そのものを楽しむ。

そこには、強い刺激による快感とは異なる、穏やかで豊かな喜びがあります。

目合ひは、何かを達成するためのものではない。

相手を満足させるためだけのものでもない。自分が満足するためだけのものでもない。

お互いが自分自身でありながら、相手の存在を感じ、二人でその時間を味わうこと。

私にとって、今回の経験は、そんな目合ひの可能性を改めて教えてくれるものでした。

これからも、目合ひを通して、一人でも多くの方が自分自身の感覚と出会い、心と體を大切にできることを願っています。


目合ひを、もっと深く知りたい方へ

目合ひとは何なのか。
性、身体、女性性・男性性、人と人とのつながり、自分との向き合い、
私が探究していることをメールでお届けします。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目合ひに出会ってから、セックスに戻れなくなりました。

セラピスト・カウンセラー・目合ひの人

性欲も、睡眠欲も、食欲も。
人間に自然に備わっているものを否定せず、
自然の流れに沿って生きることを探究しています。

コメント

コメントする

目次